自己成長!幼少期に生まれ育った町に行けば人生激変する

6月の半ば、私は自分の家族と自分の母親を伴って、私が幼少期から中学生の時代まで過ごした地元に行ってきました。

現在住んでいる場所から車で1時間程度でたどり着ける場所です。敢えて行く理由もなかったのですが、天気が良かったので急に行きたいと感じてしまい家族にお願いしてついてきてもらうことにしました。
 

自己成長して復縁を目指すなら幼少期を過ごした街で自分を探そう

何かを自分の力で手に入れたかったのかもしれない。
地元の中学校が見えてきた時、この辺のホームセンターで万引きをした事を思い出しました。
 
そこまで裕福な家庭ではなかったけれど、ご飯が食べられないとか洋服がボロボロとか、そういう事はなかったと思います。
 
それでも一度万引きをしてしまったことがありました。
 
私は何が欲しかったんでしょう?
確か何かのロープと腕につける運動用のサポーターを盗んでしまった気がしますが、それがものすごく欲しかったわけではないんです。
 
幼稚園から小学校の3年生位まではいじめられていたので、親が空手道場に入れてくれました。
自転車も買ってもらいましたし、ファミコンもありました。
 
それでも必要のないものを万引きしたのは、
まだ自分で何も達成していなかったからだと思います。
 
あえて言うなら親が私のことをしっかり守ってくれたからこそ、私はその時まで自分の手でまだ何も達成していなかったわけです。
自らの努力によって何も獲得していなかった。
空手の道場に入ったのは自分で入りたいと親にお願いして入ったわけではない。ファミコンも欲しい欲しいとグズったわけでもない。親が私のことを大切に思うがゆえにいろいろやってくれたのです。
 
それが万引きをしてしまった原因なのかもしれません。
 
私の親は過保護と言うほどではありませんでしたが、なにぶん私が弱いため、弱い私を守ろうとしてくれました。
その親の愛によって、私にはたくさんのプラスのものがもたらされたと思いますが、自分の努力で手に入れたぞという充足感のある獲得は少なかったと思います。
 
きっと人間にはものを与えすぎてはいけないしスムーズに進める道筋や輝くステージを用意しすぎてはいけないのです。

「自分で探して見つけてくればいいよ」と言わなければならないんですね。
 
しかし私たちは愛しているからこそ、その愛する人に対して無用な束縛や指示出しやお膳立て(ステージを用意すること)をしてしまう。
それが相手から「達成の喜び」「獲得の自信」を奪い去ることになる。
 
だから私たちは、妻や夫に対して、子供に対して、自分で探して手に入れてきなよ、と言ってある程度好き勝手にやらせてあげなければいけないのです。
 
特に彼女や妻から別れ話を切り出されている男性は、相手に好き勝手やらせることが苦手だと思います。

心配だからこそ、
それはやらないほうがいい、
これはやるべきだからやれ、
ほら準備してやったぞ、
この道を進めばいいから文句言わずこの道を行け、
そんな対応をしてしまいます。
 
しかし愛すればこそ、私たちはその愛すべき人に対して「好きにやればいいじゃん、自分で獲得しておいでよ」と笑顔でポジティブに言い放ってあげないといけないのだと思います。
 
それをやらなければ、自分の力で何も獲得できない状況に陥ったその人は、
万引きをして達成感を得るかもしれないし、
不倫をして達成感を得るかもしれないし、
自分より弱い人間をいじめることで、その相手の精神エネルギーを盗んで何か獲得した気になる、という山賊のような行動をしてしまうかもしれないんです。
もちろんあなたから何かを盗むかもしれません。
気持ちかもしれないしモノかもしれないし金かもしれない。それでも何かあなたから盗んで「自らの力で獲得した」という自己肯定感を高めるという良くない行動をしてしまうかもしれません。 
 
だからこそ私たちは、例えば恋人関係であれば、相手の趣味を尊重して相手が「趣味友と遊んでくる」と言えば笑顔でいってらっしゃいと送り出さなければならない。
その場に異性がいるんじゃないの?なんて疑ってはいけませんし、その場の写真を送ってねなどと要求してはいけないわけです。相手に好き勝手やらせてあげなければいけなかったのです。
 
夫婦関係であれば別居時のルールなど決めず、門限なども決めず、月に何回会うとか週に何回会うとか決めずに、相手に対してある程度好き勝手やらせてあげないといけないわけですね。
 
地元の中学校を見つけただけでそのことに気づくことができました。
地元に戻って懐かしい場所を散歩しながらよく考えるという事は本当に大切なことです。
 

諸行無常の世の中で、形あるものも形なきものも薄く溶けて消えていくなら

下の写真は私がかつて住んでいた札幌市厚別区のもみじ台団地W-16号等の駐輪場の中の1つです。
私もこの駐輪場に自転車を停めていました。
朽ち果てていく思い出の中で自分自身を見つめる
朽ち果てていく思い出の中で自分自身を見つめる
全ての自転車が明らかに朽ち果てていて現在使用されている自転車は1台もない。団地の住民が高齢化している
全ての自転車が明らかに朽ち果てていて現在使用されている自転車は1台もない。団地の住民が高齢化している
幼少期の頃の自分は一生懸命生きていた。今も誇り高く一生懸命生きているか
幼少期の頃の自分は一生懸命生きていた。今も誇り高く一生懸命生きているか
いい自転車を買っても、いい家に住んでも、それはいつかこんなふうに朽ち果てていきます。
生活するためにお金を稼いでも、それは家賃、食費、水道光熱費に消えていく。
将来のために貯金をするのも良いですが、将来この社会がどうなっていくかはもうわからない。
国破れて山河あり、という漢詩を中学生か高校生の時に習ったかと思います。
 
国破れて山河あり
城春にして草木深し…

杜甫という8世紀頃の唐の詩人が書いた『春望』というタイトルの詩ですが、
例えば離婚問題に直面しているあなたは、

家族崩れて口座あり
リビング豊かなれども人影なし…

という状況に陥っているのではないでしょうか。

仕事、お金、モノ、動産、不動産、
そんなものは人生の本質ではなかったのです。
 
そしてまたもしあなたが元カレや元カノに振られてしまっているのなら、

恋破れて仕事あり、
その身自由にして夜長し…

というような心境になっているかもしれません。
 
俺にも仕事があるんだ私にも仕事があるんだ、忙しいんだ、遊びに行く暇なんてないんだ、出かけている時間なんてないんだ、お金もかかるし遠いし無理なんだ、
あなたはそんなことを元恋人に対して言っていたのではないでしょうか。

そして付き合っている時には面倒だと思っていた恋人からの様々なリクエストがなくなって自由になったけれど、夜が長くなったように感じてとても悲しい気持ちになっている…
 
大切にすべきだったのは、その恋人からの面倒なリクエストや、その恋人に自分の時間を奪われる事そのものだったはずです。
 
恋人に自分の時間を奪われながら不自由に生きることこそが、恋愛の幸せだったのです。
 
でもあなたは仕事を追い求めたり、お金を追い求めたり、物質的豊かさと時間の余裕を追い求めて、恋人をないがしろにして生きてきた。
 
恋破れて仕事あり
その身自由にして夜長し

自分の自由時間が増えて全て自分1人で決断できるようになり面倒なリクエストもされなくなって自分の仕事に集中できるようになったら、今までよりも夜が長く感じられて寂しさが襲ってくるなぁ…
というニュアンスです。
深く反省しながら二度と同じ過ちを犯さない自分を目指しましょう。

これだけでも今までの自分自身の間違いに気づくことができると思いますが、
ここでもっと重要なことをお伝えしておきます。
 
仕事、お金、モノ、動産、不動産、
そういう目に見えるものに関しては当たり前に朽ち果てて消えていくものではありますが、
しかし「温かい思い出」もまた、保存しなければやはり朽ち果てて消えていきます。
あなたがやってきた努力の歴史ですらも、保存する努力をしなければあなた自身の頭の中からゆっくりと消え去っていきます。
 
ですから「思い出の記録」「努力の記録」「考えの記録」を形としてしっかり残して保存していく意識を持つことが大切です。
これがぜひとも頭の中に刻みつけておいて欲しい重要なことです。

それさえ保存していくことができれば、私たちはそんな大切な思い出の上に自信を持って両足でがっしり立ち続けることができます。
 
カネもモノも不安定です。それは消えていくもの。草木に飲み込まれ消えていく城のようにはかなく意味がないものです。
 
しかし思い出があれば私たちは堂々と自信を持って立ち続けることができます。
しかし実はその思い出すらも、時間が経つにつれてその時間に飲み込まれて薄く消えていくのです。
 
そうならないように思い出の記録をしっかり残して保存・メンテ・維持することを忘れないようにしてください。
 
そういう意味でも私は復縁を目指す皆さんに「アルバムを作りましょう」と何度もお伝えしているのです。
 
スマホの中にデータが入っているだけでは意味がありません。
アルバムを作るか、動画を編集してDVDにするかして「保全」しなければならない。
 
その作業の中でまたあなたは自分の反省すべき点を見つけ、そしてその反省の中で新しく生まれ変わって成長していくのです。
 

デラシネからの離脱、自分自身との絆

デラシネとはフランス語で「根なし草」「根っこを引き抜かれた状態の草」という意味で、そこから派生して現在では「故郷や祖国から切り離された宙ぶらりんの状態の人」を意味する言葉です。
 
恋人から捨てられたり、配偶者から離婚を突きつけられたりしている人はまさにこのデラシネの精神状態になっているはず。
 
まさに根っこを引き抜かれた状態で、誰にも頼ることができず、どこにも頼る場所もなく、ただ恋人や配偶者から別れを告げられた悲しみを感じながら、部屋の中で虚ろになって心ここに在らずでふわふわ宙ぶらりんに浮遊しているような状態。
デラシネそのものです。
 
誰にも頼ることもできない、どこにも耐える場所がないのなら、自分自身を頼るしかない。
しかし普通は自分自身を考えるときに自分を主観としてしか見れず客観的にはなかなか見れないから、自分自身を頼ろうとするといつまでも自己中心的に自分中心で考え続けることになる。

いつまでも自分視点でしか状況を把握できない。
自分自身を遠くから眺めることができない、
自分自身の考えを遠くから眺めることができない。
幽体離脱のように自分の頭のてっぺんから自分自身の魂を抜き出させて、はるか上空から自分自身の行動や考えを客観的に見るという「メタ認知」ができない。
 
「自分が生まれ育った故郷、すなわち祖国」に戻れば、この「自分自身を客観的に見れない」という状況から抜け出すことができます。

下の写真の丘を見てください。
今この丘から駆け下っているのは私の息子ですが、40年前は確かに私はそこにいて、同じようにこの丘から駆け下っていたのです
「熊ノ沢公園」という昔からある公園。ここで私も同じように走り回っていた
「熊ノ沢公園」という昔からある公園。ここで私も同じように走り回っていた
私の息子の姿に重なるように自分自身の子供の頃の姿が見えるんです。

あなたにも見えるはずです。今はデラシネの状態で苦しんでいるあなたでも、自分の故郷に戻って子供の頃に走り回った道、山、公園を眺めれば、自分自身が自分のその故郷で遊び回っている姿をタイムスリップしたかのように思い出してその視覚に捉えることができるはずです。
 
その時あなたは自分自身を客観的に見ている。
小学生の時の自分自身を客観的に自分で見ることができている。
これが主観でものを考えず、自己中心的にものを考えずに、
客観的にものを見るという事です。
 
そのイメージがわかるようになると現在の自分に対してもそれができるようになるんです。
自分自身だけで、自分のことを客観的に考えられるようになるんです。
 
そしてさらにこんなふうに幼少期に自分が育った場所に戻ってそれを眺めることによって、
子供の頃の自分自身の一生懸命だった姿を思い出すことができます。
 
あなたは確かにあなたの地元で精一杯、一生懸命生きていたんです。
もみじ台西公園という公園。
もみじ台西公園という公園。
もみじ台西公園を40年ぶりに見たときに私は思い出しました。
 
毎朝団地の方向から坂を下って、小学校前にあるこのもみじ台西公園に着くと、公園入り口周辺の芝生にランドセルをぶん投げて、この公園を最低2周は走らなければいけません。
そういう学校の決まりだったんです。先生たちも何人かこの公園で立って見ています。
しっかり2周するとマラソンカードにスタンプを2個つけてもらえます。

足の速いやつは3周でも4周でも走るので、マラソンカードのスタンプが貯まるのが早い。

それでも走って良いのはなんとなく4周くらいまでと決まっていました。
これは不文律で決まっていたんです。不文法です。
ルールとして明文化されていないが、なんとなくそんな決まりになっていて、その決まりを破る奴はいなかった。

そんなことを思い出しながらこれもとても大切なことだと感じました。
 
小学校の時代から我々は確かに空気を読み、やりすぎず、やらなさすぎず、バランスよく一生懸命みんなに合わせて頑張っていた。
 
でも現在は「俺には俺の考えがある」「私には私の生き方がある」そんな価値観が過剰にもてはやされています。
確かにその通り、自分自身のオリジナリティーを失ってはいけません。
 
しかしその自分自身のオリジナリティーを大切にするという言葉を、もしかしたらあなたは「わがままの言い訳」として使ってきたのかもしれません。
 
その結果あなたは自分らしく生きているはずなのに恋人から振られる。
その結果あなたは自分なりのやり方で家族を愛しているはずなのに妻や夫から捨てられようとしています。

空気は読まなければならない、
自分の生き方という言葉を言い訳として使ってはならない、
嫌でも周りには合わせないといけない、
あなたは、学校や親がそういうことを教えてくれなくなった世代の始まりの世代なのかもしれません。
 
自分らしく生きる事は、誰かと一緒に生きることと相反することなのだ。誰かと一緒に生きる以上は自分らしさはかなりの程度押し殺さなければならないのだ。
自分らしさを押し殺して生きる中で新しい自分らしさを生み出さなければならないのだ。
そういう事をもし教わっていないのであれば、ぜひ今そのことを新しく胸に刻んで下さい。
 
幼少期に自分が一生懸命生きていた地元に戻って考えてみれば、そんな重要な真理にも気付くことができるわけです。
 
ですからぜひあなたも地元に戻って地元の小学校を見て、地元の中学校を見て、かつて住んでいた自分の家を見て、小さい頃の自分の姿を思い出してください。
 
その小さい頃の自分、
頑張り屋さんの小さい自分
小学校の頃の元気な自分
厳しい親のしつけの下で我慢して努力し続けてきた自分。
その小学生の頃の一生懸命だったそいつ、
そいつこそがあなたにとって最高の、絶対に裏切ることがない、唯一無二の神聖な存在ではないでしょうか。

そいつはいい奴だったはずです。
そいつは文句ばっかり言う奴ではなかった。
そいつは頭でっかちの頑固者はなかったし、
そいつは口だけ達者な理屈屋ではなかった。
正論を喚き散らすヒステリックなやつではなかったし、
被害者面して自分の被害を泣きながら訴え続けるやつでもなかった。
そいつはいい奴だった!そいつは純粋だった!
 
そいつを裏切らないために今あなたは頑張らなければいけない。
そいつの努力に報いるのは、
そいつの努力を認めてやれるのは、
そいつにそのまま頑張ればいいんだ心配するなそのまま進め!と言ってやれるのは、
現在のあなたしかいないんです。
現在のあなたが努力することでしか、そいつを、その純粋で小さいイイ奴の未来を、幸せにしてやることはできない。

自分自身を裏切るな、なんていう言葉はよくあります。でもそれをみんな概念的にしか捉えていないからなんだかよくわからない。

だからしっかり地元に帰って、もしくはまだ地元に住んでいる人はわざわざ地元の小学校や中学校の周りを歩いてみなければならない。
 
自分自身を裏切るなという事は、
「毎日目の前の小さなことに集中して一生懸命生きていた、その無垢な小学生の自分を裏切るな」という事です。
このイメージを抱くことによって、絶対に自分自身を裏切られなくなる。
 
可愛くて頑張り屋さんのあなた、
クラスの人気者だけど親が厳しかったあなた、
クラスで目立たないけど自分の趣味に没頭していたあなた、
運動会の徒競走で頑張って1位になったあなた、
あるいはビリっけつで悔し泣きしたあなた、
そいつを裏切るな!その小さくて頑張り屋さんのそいつを裏切るな!ということです。
 
これあなたはデラシネの状態から抜け出せますよね。もう根なし草ではない。幼少期に育った地元をじっくりと見て回ることによって、小学生の頃あるいは中学生の頃のあなたが蘇り、その無垢な彼らがあなたの足を支えてくれます。
あなたの根っこになってくれます。
そしてあなたは彼らを裏切らないように復縁を目指して頑張るのです。

彼らを、すなわち自分を裏切らないようにその心を美しく鍛えあげていきましょう。